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憧れ



 雨は嫌い。じめじめしていて、この纏わりつくような独特の湿気が気持ち悪い。
 匂いも嫌い。建物の中にも侵入してくるこの湿気を孕んだ雨の匂い。せっかく髪を整えいい服を着ても全くの台無しになる。
厚い雲の元に光は届かず、辺りは日でもとうに暮れたかのように薄暗く、閉ざされている。
 ポツポツポツポツ…
 絶え間なく降り注ぐ雨は、単調な音を繰り返し騒がしい。
 塞ごうにも絶対に防げない喧騒。私は今教室で一人机に蹲っている。

 目を瞑った先、腕の中の視界は暗闇に閉ざされている。
 唯一雨で好きなのは、人の声が聞こえなくなること。人の気配が感じられなくなること。ただそれだけ。

(あ……)
 放課後の校舎に、いつものあの音色が響く。
(ちょうど四時か…)
 あれは、もう私の中で時報代わりになっていた。
 微かに耳に届いたと思ったら、私の耳が雨音をかき分けて器用にそれを聞き分ける。
 ピアノの音。ここは音楽室から近いからこうして防音しきれない音が届いてくる。
 そして、弾いているのは例によってあの人だ。

 暗闇の世界の中に、微かに光が差すような。それは太陽の光のように白いものではなくて私を包み込む暖かい陽だまりのような色をしている。

 雨が降り注ぐ外からは、ありえない情景が心の中に浮かぶ。
 私にとって、この音があれば雨なんて関係ない。
 私の、好きな人が奏でる音色。
(いつもいつも、この曲だ)

 ―――

 思えば今とは違う校舎全体が茜色に包まれる夕暮れ時。
 私は慣れない校舎の中でどちらに行っていいのか迷っていた。
 明日の転校を控え私は学校での手続きを済ませると放課後の校舎を見学がてらうろついていた。そして迷ったのだ。
 赤一色に染まる校舎はどことなく怪奇じみていて腰が引けていたのを覚えている。
 そんな時ふと聞こえたピアノの音に気を引かれたのだが、いかんせん聞こえてきた演奏は物悲しいメロディだったため余計に気持ちが慄く。
 音の聞こえ具合からどうやら音楽室は近いらしい。
 吹き抜けから聞こえてくる音に階段を一フロア分登ると、余計に音は近づいた。
 音楽室と掲げられている教室の前で立ち止まり息を潜めて固まる。
 音は消えた。
(まさか自分の存在に気づいた?)
 まさか。そんなわけがない。
 音楽室の中にいて外の人間の存在を知覚するだなんて。
 しかしまさかという考えが首をもたげる。
 静まり返った目の前の教室と廊下に、私はそっと静寂を壊さないように扉に手を掛けた。
 音楽室は広かった。私の目の前にはピアノの姿は確認できずただ雑然と机と椅子が並べられている。
教室の後ろ側に位置するこちらには楽器やスピーカーなどの類もいくつか置かれていた。
 風通しがやけに良かった。見ると正面のカーテンが僅かに膨らんでいる。
 校庭からは何の喧騒も聞こえてこなかった。
 視線を右に移す。黒板の方だ。
 するとそこには思ったとおりグランドピアノがあった。漆黒の、つやのある巨体。
 そして蓋は開かれている。
「ぁ…」声にならない小さな呟きが口から漏れた。
 そこにはピアノの陰になって確かに人が座っていたしそれは女の子だった。
 微かに見える、長い髪。輪郭は整っていてここからでも美人な子であるのは確認できた。
 しかし、それが目に捉えられた途端心臓が跳ねたのはそう、見てはいけない光景を見てしまった、
そんな思いにかられたからだ。そこにはもう一人、思いがけない人物がいた。
 それは女の子。大人っぽくどこか品のある、これまた美人な女の子だった。涼しい顔立ちの綺麗な立ち居振る舞いをしていた。
 彼女はヴァイオリンを片手に下げている。そして演奏は例によって中断されていた。
 放課後の音楽室で、二人はそのシルエットがまるで重なるようにヴァイオリンの彼女が背を屈めるようにして椅子に座る彼女に、唇を重ねていたのだ――

(ふぅ)
 ここまで来て回想が終わる。
 その時の光景はまさに幻想的そのもので、私はどれほどの時間自分が立ち尽くしていたのか、
どれほどの時間自分の中の時が止まっていたのかさっぱり覚えていない。
 思えば自分が意識を取られていたのは、ピアノの彼女だと思ったけれどヴァイオリンを持つ少女にも惹かれていた。
 だってそれは、とても綺麗だったから。
 映画の一場面のような、絵画の一部分をくり貫いてきたような、そんな非現実的な光景だった。
あの後、どのようして音楽室を後にしたのか覚えていない。どうやって扉を閉めたか覚えていない。今覚えばきちんと音を立てずに戸を閉められただろうか…。
 覚えているのは、廊下で戸に背を凭れさせぼんやりしている自分の姿からだった。
 あの後校舎の中を探していた母親と合流し、家に帰宅する――

 隣には、いつもあの人がいた――
 転校してきてからもどうしても私の視線と意識を奪う二人の生徒は私自身にも二人のどちらに意識を傾けさせているのか理解させないでいた。
 綺麗な二人。けど学校では何の違和感なく溶け込んでいるようだった。
 私には二人のどちらも、このありふれた学校の光景の中で光を放つように浮いている。
 関わりになりたいのか? わからない。
 そんなのわからない…。
 自分にあぐねている? とても大人っぽい二人だから。
 ……そんなのわからない。

 意識は再び暗闇に戻ってきた。
 耳が再び雨の音を知覚し始める。ザーっというような一続きの動作ではなく、ただ絶え間なく振り続ける一滴一滴が主張するような雨の落ち方。
 それはとても機械的で一つのリズムを思わせるあまりにも単調すぎる音の波。
 灰色のカーテンのようだ。そう思った。
 そしてカーテンの中に世界はただ静かに閉ざされている。
 閉められたそれが開くには、まだ当分かかるらしい。
 私は顔を上げた。
 誰もいない。辺りは暗さを増してきていた。
 ピアノの音ももうしない。もしかしたら、二人はまた逢瀬を交わしているのだろうか。

 そこまで考えて私の心は再び色を失う。
 それに私は気づいていない。
 あの音の隣には、いつも『あの』音色。弦が奏でる、美しい音色。
 あの弦が奏でる音色には、いつもあのピアノ。漆黒のピアノ…。
(………)
 私は楽器が弾けない。ただの一つも。
 好きだった。ピアノの奏でる演奏が。ヴァイオリンの弾く音の繋がりが。
 …ピアノを弾くあの人の姿が。ヴァイオリンを掲げるあの人の姿が。
 漆黒のピアノに映えるかのような美しい静かな姿。滑らかな指の動き。奏でる体の動作。
 まるで空気を吸うように、難解な指の動きもまるで自然とそうすることが当たり前のように軽やかに演奏するあの人が。
 瞳を瞑り、ヴァイオリンに身を任せ難解な表情をするあの人が。
 一目見たときから心奪われていた。
 一目見たときから……。
 私には、二人の隣に立つ資格がない。弾けない。どうひっくり返っても。雨が降っても。止んでも。
 情けない…。
 今日も、きっと五時まで続くのだろう。
 私はこうして、うずくまって耳を研ぎ澄ませる他ない、切ないメロディ。
 あなたは私の思いに気づかない。






UP 2008.08.23

憧れだったり羨望だったり嫉妬だったり。
独りよがりです。


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